古/いにしえの面影       其の一阡五拾五

怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2013年01月08日~26日
アップ日  2014年05月26日 月曜日
三重県名張市丸の内~大屋戸(潜水橋) 六
ワッカン~
資料として気になる街角撮っておきや!

天正伊賀の乱(てんしょういがのらん)は、北畠信意と伊賀国豪族連合との戦いの総称である。
天正6年(1578年)から天正7年(1579年)の戦を第一次。
北畠家の養子となっていた織田信長の次男北畠信意は、
天正4年(1576年)に北畠具教ら北畠一族を殺害し伊勢国を掌握すると、
次は伊賀国の領国化を狙っていた。
1578年(天正6年)2月、伊賀国の郷士下山平兵衛が信意を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。
信意は同年3月に滝川一益に北畠具教が隠居城として築城した丸山城の修築を命じた。
3層の天守や天守台は石垣で固められ、また二の丸への登城道は9回折れているなど、
規模壮大な城であったと記されている。
これに驚いた伊賀郷士11名が集まり、「完成までに攻撃すべし」と集議一決した。
丸山城周辺の神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、
同年10月25日に集結した忍者たちが総攻撃を開始した。
不意を突かれた滝川雄利軍や人夫衆は混乱し、昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した。

翌天正7年(1579年)9月16日、信意は8000の兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、
伊賀郷士衆は各地で抗戦し信意軍を伊勢国に敗走させた。

信意が無断で伊賀に侵攻し、さらに敗戦したことを知った信長は激怒し、信意を叱責した。

天正9年(1581年)の戦を第二次。
天正9年(1581年)4月、上柘植の福地宗隆、河合村の耳須弥次郎の2人が安土城の信長の所に訪れ、
伊賀攻略のさいは道案内をすると申し出た。

そして再び北畠信意を総大将に5万の兵で伊賀国に侵攻した。
『信長公記』『多聞院日記』には9月3日に攻撃開始との記述があるが、
『伊乱記』では9月27日に6か所(伊勢地口からは信意、津田信澄、柘植口から丹羽長秀、滝川一益、
玉滝口からは蒲生氏郷、脇坂安治、笠間口から筒井順慶、初瀬口より浅野長政、
多羅尾口から堀秀政、多羅尾弘光)から攻撃したと記述されている)『多聞院日記』の記述では総勢1万余とされている。
同月6日より戦闘が開始され、各地で進撃し同月11日にはほぼ伊賀国を制圧した(信長公記)。

奈良の大倉五郎次という申楽太夫が柏原城に来て、和睦の仲介に入り、
惣名代として滝野吉政が28日早朝に信意に会って、城兵の人命保護を条件に和睦を行い、城を開けた。
『信長公記』ではこの停戦時期を9月11日としている。
『多聞院日記』では「十七日、教浄先陳ヨリ帰、伊賀一円落着」としており、
日程のずれはあるが、当時の伝聞を集めた記録として信頼性は高い。

この柏原城が落ちた時点をもって天正伊賀の乱は終わりを告げた。

(Wikipediaより)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

近鉄名古屋方面

※大阪方面
名張川橋梁近く

残され土蔵

※重厚な扉が開いてましたが~
ポストが有るといえば
住まれてるのでしょうか?

近鉄名張駅南側に在る宝蔵寺さん

※大きな本堂も~


三重四国88ヶ所52番霊場
江戸時代県内には、歩いて一週間ほどで巡拝出来る札所が各地にあり、盛んに巡拝されていたと伝わるが、
明治初期の廃仏毀釈と共に、自然消滅の道を辿ったと思われる。
その後明治の中・後期より、復興を願う声にあわせて復興、巡拝講等をもうけて昔日に返ったとあるが、
これも1940年(昭和15年)頃までのことである。

太平洋戦争後、その存在さえも忘れかけていたが、四国、西国等の巡拝が盛んになるにつれ、
復興の声を聞き、県下に地域的な形で存在していた札所を、全県下に再編し、
1971年(昭和46年)に、番外札所5ヵ寺を含め93の寺院で構成される、三重四国八十八箇所霊場が開設された。
(Wikipediaより)


※慶応期の石標も~

駅前近くですが
静かな路地~

※名張城の名残でしょうか?
市街地内でも段差が~

夕暮れの市内地です。

※中学校の校門

学校裏に押し込められたような地区が~

天正伊賀の乱には多くの死者が出て、
市内各所より多くの無縁塔・石仏が出土したとか(合掌)

無縁法界萬霊塔

※逢魔が刻なんて
気が急きます。

明治6年創立の小学校
旧裏門でしょうか?

※夕暮れの街中風景

結納屋サン

※市内地の方に~

お洒落な橋

※向こうはマイ橋??
屋根付き廊下

路地

ガラリ日は変わって~
市内散策

※トタン被せですね。

ん?
潜水橋~

※前のページでは
東から西に流れていた名張川ですが、
此処では西から東へ流れてます。

この自転車では初めてです。
フルサイズの自転車に比べて
直進安定性の悪いBD1では
少し緊張気味で…

※時分撮し~

河川の左岸は大屋戸地区
堤防に石碑が~

※石碑台座に盃状穴
見っけ!

●神橋碑

※水神碑
暴れ川だったのでしょうか?

大屋度地区側から~

※コンクリ橋です。

正式名称は、
大屋戸潜水橋なんですね。
市道大屋戸中道5号線

広い河川敷に~

※夏なら川遊びなんてね。
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
ページトップへ戻る

Copyright c 2003 Office Young Moon. All Rights Reserved.