港の外れは~
※龍福寺跡碑
賀茂神社の神宮寺だったのでしょうか?
室津港出入口の堤防です。
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上野家誕生地
※記念碑?
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湊口御番屋跡
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先祖代々の墓
どなたの??
※坂の上に燈籠~
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住吉社
祠に燈籠
※大浦を挟んで赤松の鼻や
金ヶ崎方面が見えます。
灯台の役目も~
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弘化期の銘
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参籠所
石垣が見事
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多くの摂社があります。
※大宮社
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港を見下ろす白壁の跡と
兵庫県下で唯一のイスノキとタブノキが~
残されています。
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切り取られた石材
小豆島から上方に送られる途中、
此の地に寄港したとか。
※現ソテツ園
シーボルトが訪れた時代には、
立派な多宝塔が在ったとか~
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幹の途中で合わさった梛の木。
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賀茂神社の愛の榊( 連理の榊)
※絵馬にも~
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檜皮葺屋根に本瓦~
ウットリします拝殿なんですね。
絵馬堂も~
※作業庫
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奉納絵馬
ご当地近く
赤穂義士図と思えば~
描かれた武士の名から検索すると~
神谷の仇討経緯
1862年(文久2)、播州(兵庫県)赤穂藩の卒族・西川升吉が、
尊王攘夷運動と結びつけ参政の村上真輔を打つ。
村上家は、西川が私怨を晴らすため大義を騙り綱紀厳しき村上を斬ったと藩に訴えるも、
村上家は閉門となり、西川家は咎めなし。
村上家では親族が集まり、さまざまな家名回復のための策を練り、実行するも藩の壁は厚い。
1871年(明治4)、藩は仇討の気配あるを察知、西川一派を殺生禁止の高野山へ送り、ほとぼりをさまそうと画策。
高野山では殺生は法度、村上側が高野へ行く前に討つことを決心。
1872年(明治5)2月、播州から高野に向けて西川一派が出発。
このあたりの動きはすべて村上方の監視下にあった。
村上一行は2月28日に河内長野・油屋旅館に泊まり、
29日中屋旅館泊。翌30日朝、作水峠で待ち伏せをして、西川一派7名を討ち果たす。
1873年(明治6)、明治政府より仇討ち禁止令が出される。
へぇ~!知らんかった。。
※御獅子図
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神龍彫刻師 大阪安土町住人 中川利兵藤原親家の作とか
後で現物を見ます。
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蘭船図絵馬
シーボルトも見たとか。
※残念~見えない。。
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神馬図額
元信筆
白毛に斑点のある葦毛(あしげ)の裸馬
※元は生き馬だったのでしょうね。
前には貝塚寺内町で名品を見ました。
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平清盛も詣でた
賀茂神社の建物
京都の上加茂神社と同じ祭神(加茂別雷神)
をまつり、流造(ながれつくり)、
桧皮葺(ひわだぶき)の五つの社殿が並び、
本殿の前に唐門を建て、回廊が作られてます。
※高岡製の奉納馬
紋も京都と同じ二葉葵。
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前には~ 古代、賀茂神社に仕える海人は、気にいった所を神領に
することができた。そのような土地は御厨(みくりや)と呼ばれ、
平安時代には42ケ所もあり、室津もそのひとつ。大阪にも~
御厨には、魚介を神社に献上し、その代わりに海における
特権を保証された人々がいた(供祭人=ぐさいにん) この賀茂神社の荘園になった時に、分社として建てられた。
上賀茂神社と同じ五社造りで、同じ祭神をまつる。
紋も同じ二葉葵。
※桜咲く穏やかな日和~
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能面も~
翁
※鬼、媼
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本殿と拝殿が境内を隔て
て建っている
名付けて、飛び拝殿とか~
※注連縄も~
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