全国的にも珍しい
アーチ重量式コンクリートダム
アーチ式ダムを作れるほど岩盤が堅固ではないが、
重力式コンクリートダムよりもコンクリート使用量を節約することができる。
構造的にはアーチによって人造湖からの水圧を両岸の堅固な岩盤に伝え、
さらにダムの自重をも利用することで安定性を高いものとしている。
(Wikipediaより)
※淀川水系で初めてのダムとか~
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堰堤の上は一般道路で走れます。
※右上が管理棟
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ダム堰堤から上の山に見える橋跡
ダム堰堤建設中の仮橋でしょうか?
※遠く五在所の峰
白いですね。。
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銀色に輝く~
※県道からチラリと見える
月ヶ瀬湖
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日乃出の滝
※西向いてるから
夕日では??
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国道25号(名阪国道)
から見えるダム湖上流部
※釣りも盛んなんでしょうか?
ヘラブナ供養塔
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県道4号線
梅の木と月ヶ瀬湖を横目に~
月ヶ瀬梅林(つきがせばいりん)は奈良県奈良市月ヶ瀬尾山とその周辺に位置する梅林である。
五月川の渓谷沿いに梅の木が広がる様から月ヶ瀬梅渓とも呼ばれる。
古くから有名な梅林で、日本政府が最初に指定した名勝の一つである。
2007年現在、約1万3千本の梅が栽培されている。
(Wikipediaより)
※わが宿の梅のさかりをよそにして
訪ねてぞ来し月ヶ瀬の里
谷崎潤一郎 句碑
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旧長尾橋
旧波多野街道改修工事で架橋された遅瀬川に架かる旧長尾橋がある。
1926年(大正15年)頃の竣工で石橋風の意匠が施された単径間RCアーチ橋であるが、
1969年(昭和44年)に国道を改良し隣接して現長尾橋が竣工したため廃橋となっている。
共用はされていないが旧波多野街道改修工事に伴う貴重な土木遺産として現存している。
(Wikipediaより)
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旧道が残されてます。
※橋名プレートも~
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此処はダム湖が出来る前から
在りそうですね。
※脇を見たら
国道25号
現橋脚の左右に新しいのが造られてます。
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中奥彌寺夫頌徳碑
※月ヶ瀬梅林の起源は古く、1205年(文久2年)に真福寺境内に天神社を建立する際、
菅原道真の好んだ梅を植樹したとの口伝が残っている。
この記録の真偽は定かではないが、「桃仙の梅」が樹齢600年と推定されることから、
月ヶ瀬梅林の起源は少なくとも600年前にさかのぼるのではないかと考えられている。
1331年に起こった元弘の乱で大敗を喫した後醍醐天皇が笠置山から撤退する際、
一緒に逃げてきた女官の一人が月瀬に滞在した。
その女官が熟れた梅の実を見て月瀬の民に京で使用される紅花染め用の烏梅の製法を教えたという伝承が残る。
その約100年後の15世紀ごろには五月川流域一帯は烏梅を作るための梅林で埋め尽くされたという。
月ヶ瀬梅林が文献上はじめて紹介されるのは江戸時代に入ってからである。
1772年に神沢其蜩が著した『翁草』において月ヶ瀬梅林が紹介された。
続いて、1803年に大坂の儒学者である田宮仲宜が著した『東牖子』では挿絵を添えて紹介している。
明治時代に入り合成染料が伝来すると、烏梅を用いた手間のかかる
紅花染めは徐々に行われなくなり、烏梅の価格は暴落した。
梅樹の手入れはおろそかになり、畑地に植えられていた梅は伐採されて他の作物に植え替えられていった。
最盛期に10万本を誇った梅林は徐々に衰退してゆく。しかし、風光明媚な風景を求めて観光客はむしろ増えていった。
高山ダムが完成すると約3800本の梅がダムの底に水没することになる。
水没する梅林を補償するため、移植可能な古木を現在の月ヶ瀬尾山天神の森付近や月ヶ瀬嵩三山付近に移植した。
また、月瀬村内各所に新たな梅林が設けられた。
また、梅林を保護する立場である月ヶ瀬保勝会は戦中戦後の混乱から休眠状態に陥っていたが、
新生月ヶ瀬梅林を盛り立てるために活動を再開した
高山ダムが完成すると約3800本の梅がダムの底に水没することになる。
水没する梅林を補償するため、移植可能な古木を現在の月ヶ瀬尾山天神の森付近や月ヶ瀬嵩三山付近に移植した。
また、月瀬村内各所に新たな梅林が設けられた。
また、梅林を保護する立場である月ヶ瀬保勝会は戦中戦後の混乱から休眠状態に陥っていたが、
新生月ヶ瀬梅林を盛り立てるために活動を再開した。
(Wikipediaより)
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こゝから月ヶ瀬といふ梅へ橋をわたる
※三河知多山頭火の会碑
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種田山頭火 こゝから月ヶ瀬といふ梅へ橋をわたる
※旧月ヶ瀬橋親柱
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宮の芝梅林
※月ヶ瀬橋
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磐座
集落の境界か?
斉藤拙堂碑
斎藤 拙堂(さいとう せつどう、寛政9年(1797年) - 慶応元年7月18日(1865年9月7日))は、
幕末の朱子学者。諱は正謙。字は有終。通称は徳蔵。
頼山陽や大塩平八郎、渡辺崋山、吉田松陰など、多数の儒者、文人との交流ももった。
弟子に三島中洲、河井継之助らがいる。
その博学ぶりは広く世に知られたが、特に漢文をもって知られ、
古今の漢文について評した『拙堂文話』や武士のあり方について論じた
『士道要論』『海防策』などその執筆分野は多岐にわたっている。
また経世論の関心も強く、海外事情などを調べ『海外異伝』『魯西亜外記』などを著した。
しかし拙堂の最も得意としたのは紀行文であり、『月瀬記勝』は大和国月ケ瀬を梅の名所にたらしめ、
頼山陽の『耶馬渓図巻記』と並んで紀行文の双璧とされ、拙堂の名を高めた。
また、後南朝の名付け親としても知られている。
(Wikipediaより)
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名勝月ヶ瀬梅林碑
※大正期
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昭和44年銘
沈下橋の由来碑
※八幡橋
石橋の代わりに
下の橋が架けられたとか。
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八幡橋
※月ヶ瀬桃香野
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